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Logical Skill の深い話
Logical Skill (特にLogical Writing) について、著書(たとえば、「論理が伝わる世界標準の書く技術」講談社)には書かなかった、より深い話を紹介します。
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考察の書き方
昨日紹介した考察の書き方、特に以下の説明について、より具体的に検討を加えます。

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 例として、AとBに相関関係を見いだした論文で説明します。AとBに相関関係があることは結果(データおよびその加工)です。「Aする人は、Cなので、Bする傾向が高い」が結論、つまり結果が何を意味するかです。しかし、「Cなので」とは言い切れません。「Dなので」という理由も考えられます。相関関係から因果関係を導くには、第3の因子の排除や因果逆転の可能性の排除も必要です(ここでは説明省略)。相関関係から、思いつきのように因果を導いてはいけません。
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 具体例として、朝食摂取と学力の関係で検討します。
Research Question:朝食を食べるかどうかは、学力に影響を及ぼすのか
仮説:朝食を食べると、脳の活動が活性化されるので勉強に集中できる。その結果、学力が向上する。
結論:仮説は正しい

 朝食摂取と学力の間には相関関係があります(下図参照)。引用は農林水産省のホームページ(http://www.maff.go.jp/j/seisan/kakou/mezamasi/about/databox.html)です(現在、この図は削除されている)

 しかし、この相関関係(=結果)から、仮説(=結論)は論証できません。つまり、「朝食を食べると、脳の活動が活性化されるので勉強に集中できる。その結果、学力が向上する。」とは言えません。なぜなら、「朝食を食べる」と「学力が向上する」を結びつける理由が、「脳の活動が活性化されるので勉強に集中できる」以外に考えられるからです。

 この相関関係から、仮説を論証するには第3の因子を排除しなければなりません。第3の因子とは、相関関係のある2つの事象それぞれに、因果と相関を持つ可能性のある事象です。この第3の因子があると、因果のない2つの事象に相関関係が見えてしまいます。第3の因子を排除して初めて、相関関係のある2つの事象に因果関係があると認められます。

 今回の例では、第3の因子1として、「親の育児熱心度」が考えられます。親が育児熱心なので、朝食をしっかり準備する。親が育児熱心なので、家庭学習もしっかりやる。こうなると、「朝食を食べる」と「学力が向上する」に因果関係はなくても、この2つの事象に相関関係が見えてしまいます。

 また、第3の因子2として、「睡眠時間」が考えられます。睡眠不足だから、朝食を食べる時間を惜しんで寝る。睡眠不足だから、授業を聞いていられない。こうなると、「朝食を食べる」と「学力が向上する」に因果関係はなくても、この2つの事象に相関関係が見えてしまいます。

 そこで、この第3の因子を排除したデータが必要です。たとえば、「親の育児熱心度」と「朝食の準備」には相関関係がないというデータです。「親の育児熱心度」と「家庭学習」には相関関係がないというデータです。「睡眠時間」と「朝食を食べる」には相関関係がないというデータです。「睡眠時間」と「授業態度」には相関関係がないというデータです。

 考察では、朝食摂取と学力の相関関係を示すデータと、第3の因子を排除したデータで仮説を論証していきます。つまり、朝食摂取と学力の相関関係を示すデータで、この2つの事象に因果関係がある可能性を示します。次に、第3の因子を排除したデータで、「朝食を食べると、脳の活動が活性化されるので勉強に集中できる。その結果、学力が向上する。」以外の因果関係をつぶします。その結果、仮説が論証できたと説明するのです。この説明が、「結果が何を意味するかの考えを述べる」ということです。

 ということは、データをとるときには、考察でどう論証するかも、あらかじめ考慮しなければなりません。朝食摂取と学力の相関関係を示すデータだけをとったのでは、後で考察ができません。考察のことを考えると、第3の因子を排除したデータも同時にとっておく必要があります。論文を書き始めてからでは、もはやデータはとれないことが多いです。

 ちなみに、私は、「朝食を食べると、脳の活動が活性化されるので勉強に集中できる。その結果、学力が向上する。」なんてこれっぱかりも思っていません。この、朝食摂取と学力の相関関係から間違った因果関係を導き出すことは、論理的思考を深く勉強した人であれば、どこかで目にしたことのある話です。しかし、未だにこの間違った因果関係が主張され続けています。ちなみに、私の子供たちが通った学校でも、この間違った因果関係から「朝食を食べさせてから登校させてください」と言われました。

朝食と学力

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考察とは
 考察は、結果から結論を導く(=論証する)パートです。つまり、この結果を持って、なぜ、この結論を導き出せるかを論証するパートです。たとえば、相関関係があるという結果から、なぜ、そこに主張するような因果関係があるかを説明するパートです。単に、結論から考えられることを述べるのではなく、その考えを論証するパートです。

 言い換えるなら、Reserch Question に対する答え(=仮説=結論)を、データ(=結果)をもとに論証するパートです。多くの場合、結果から唯一の結論は導けません。結果だけから考えると、複数の結論の可能性が残ります。そこで、考察によって、1つの結論を導くのです。

 例として、新手法が既存手法より優れていると訴える論文で説明します。2つの手法を3つの観点で比較した結果、既存手法が2つの点で優れていたとします。しかし、この2勝1敗という結果から、2勝した側の勝ちという唯一の結論は導けません。内容によっては1勝した側の勝ちという結論もあり得ます。そこで、2勝1敗という結果から、どちらの勝ちかを論証するのが考察です。

 ところが、多くの論文で考察での論証がないのです。結果が何を意味するか(=結論)を一方的に断じて終わりです。なぜ、そう意味するといえるかの論証がないのです。なので結論に対する納得感が弱いです。論証がないので、考察の内容が薄いばかりか、結論と同じになってしまっています。

 例として、AとBに相関関係を見いだした論文で説明します。AとBに相関関係があることは結果(データおよびその加工)です。「Aする人は、Cなので、Bする傾向が高い」が結論、つまり結果が何を意味するかです。しかし、「Cなので」とは言い切れません。「Dなので」という理由も考えられます。相関関係から因果関係を導くには、第3の因子の排除や因果逆転の可能性の排除も必要です(ここでは説明省略)。相関関係から、思いつきのように因果を導いてはいけません。

 ちなみに、技術論文などでは、結果がストレートに結論なので、考察が事実上不要な場合もあります。たとえば、青色発光ダイオードが実現できていなかったとき、材料や手法の工夫で青色に発光するダイオードができたとします。青色に発光するという結果が、そのままこの材料や手法が有効であるという結論です。仮にその材料がいかに高価であろうが、その手法がいかに複雑でコスト高であろうが関係ありません。論証するまでもなく、青色に発光させることが、すべてを凌駕するからです。

 考察に対する誤解が多いのは、考察とは何かを説明する文に問題があると思います。多くの説明で、「結果が何を意味するかの考えを述べる」のように表記されています。この「述べる」がくせ者です。文字どおり、考えだけを述べて終わりにしてしまいます。「結果が何を意味するかの考えを論証する」とすれば、より正しい理解につながるかと思います。
論理的とは何か
偶然、「論理的とは何か」について考える機会が2度ありました。1つは、向後ゼミ研究発表会での「中高生の論理的文章作成における型の指導とピア・レスポンスの効果」という論文発表です。もう1つは、「論理的な話し方を身につけるコツ【ロジカルって何?】」(下記URL)という記事です。
http://www.n-links.co.jp/web/nblog/book/ronritekinahanasikata/?fbclid=IwAR3w0ulHHyzH363Tf2puWRDKhTmG4td8ckmmj7v-5ekLFHL9YsDrvSN8fW8

 論理的であることを論じるには、「論理的とは何か」を定義すべきです。世の中には、「論理的な」と謳う本や講座、記事が溢れています。しかし、この「論理的な」はいろいろな意味に使われています。だから、使う人によってかなり意味が異なります。そこで、「ここでは、論理的であるということを、こう意味でとらえている」という定義がほしいのです。人によって異なる解釈を、その場だけでもよいから、限定してほしいのです。(まあ、そう考え始めたのは、7年くらい前と、結構最近ですが)

 「中高生の論理的文章作成における…」という論文では、「論理的」を「三角ロジックに基づく状態」と定義しているようでした。つまり、三角ロジックの基本形である、主張、データ、理由付けができている状態です。この定義は、論文発表の場では、明確に言語化されていませんでした。しかし、発表内容を聞く限り、上記の定義と判断できました。

 定義の妥当性は二の次で、定義されていることが重要です。「ここでは、そういう意味で使う」と、ある程度妥当性のある定義を示してもらえば、その範囲で検討できます。逆に言えば、定義された意味以外は除外できます。「本当に、三角ロジックに基づく状態で文章を書けるようになるのか」を検証すればよいからです。「定義の妥当性は二の次」といいましたが、もちろん、ある程度の妥当性は必要です。

 一方、「論理的な話し方を身につけるコツ【ロジカルって何?】」という記事では、「論理的」を『「ゴールに向かって」「筋道立て」「明確に伝える」事』と定義してました(下記引用を参照)。
ーーー引用ーーー
論理的とは何か
メッセージ(伝えたいこと)を、「ゴールに向かって」「筋道立て」「明確に伝える」事が論理的であるとされています。

逆に論理的ではないことを把握しても、論理的の意味が見えてきます。

「論理的ではない」とは何か
反対に非論理的なものを上げると、

一貫していない
根拠がない
飛躍がある
言いっぱなし
感情的な主張
これらが含まれている時点で、論理性とは乖離してしまいます。
ーーー引用ーーー

 この定義には、妥当性がない(論理的ではない)ので認められません。なぜなら、「非論理的なもの」としてあげている5つの状態が、定義と整合しないからです。たとえば、「根拠がない」や「感情的な主張」は、定義である「ゴールに向かって」「筋道立て」「明確に伝える」のどれに反しているのでしょう?無理矢理関連づけようと思えばできますが、決して「明確に伝える」状態ではありません。

 このようないい加減な定義では、内容の検討ができません。なぜなら、「ゴールに向かって」「筋道立て」「明確に伝える」という観点で検討してよいのかかがわからないからです。この3つの観点で、論理的か非論理的かを検討するなら、定義の補足情報(「非論理的なもの」)が非論理的となってしまいます。これでは、定義の後に書かれている「論理的な話し方」も「セルフディベート」の内容も、論理性を検証できません。

 さらには、おまけで加えるなら、「非論理的なもの」としてあげている5つの状態が正しく並列できていません。まず、この5つは互いに重複しています。たとえば、「根拠がない」=「言いっぱなし」=「感情的」なのではないでしょうか。さらに、上4つは形容詞句ですが、最後の1つは名詞句です。

 ちなみに、私は、自分の講座(ロジカルライティング講座)の冒頭で、「この講座における論理的とはこういう意味です」と定義して始めます。
並列したら順位付け、でもできない
「並列したら、順位付け。基本は重要な順」は、誰もが知っているライティングのルールだ。しかし、これが意外とできない。知っていてもできない代表例である。

 なぜできないかというと、人は作業した順に報告したくなるからだ。作業した順とは、ノートや資料に書いてある順だ。この順に報告書を書くのが楽なのだ。何も考えずに、ノートや資料を見ながら、やったことをやった順に思い出しつつまとめればよい。並べ替えるという面倒なことをせずにすむ。

 しかし、作業は重要な順よりは作業効率がよくなる順を優先することが多い。作業には無駄な時間をかけたくない。だから、重要性より作業効率を優先する。たとえば、複数箇所でデータを採取するなら、移動時間が短くなる順に回るだろう。複数の実験をするなら、実験装置が空いていた順位やることもあるだろう。

 だからノートに書いた順(作業した順)に報告書をまとめるとおかしなことになる。読み手から見れば、何の意味も無い順に並んでいるのだ。知りたい順には書かれていないことになる。

 誰もが絶対できない代表例は、複数のプレゼンターによるセミナーの受講報告書だ。この報告書は、誰もが受講した順に報告書を書く。受講した順に書くのが楽だからだ。しかし、どんな順に受講したかは読み手には興味が無い。参考になった順に並べ替えるべきだろう。しかし、並べ替えられる人はまずいない。
主張には根拠が必要
 主張を述べたら根拠が必要です。しかし、根拠無く主張する人は、知識人にも結構います。根拠を持った主張するためにも、パラグラフという概念は重要です。

 知識人の書いた本であっても、根拠ない主張をよく目にします。たとえば、齋藤孝明治大教授は、週刊ダイヤモンド(2005.6.11)の「説得力」記事の中で、「ディベートでは往々にして、立場を変えていかようにでも議論できることを求める。しかし、自分の価値基準を離れて論理構成をするという習慣を身につけるのは決して好ましくない。」とだけ述べて根拠は述べていません。なぜ、「好ましくない。」のかを述べていないのです。

 根拠なく述べてよい主張は、その主張を誰もが肯定する場合だけです。たとえば、「主張を述べたら根拠が必要です」や、「世界人類が平和でありますように」のような主張です。なぜ根拠が不要かといえば、根拠など述べなくても、主張を聞いた側は同意するからです。根拠は、同意してもらうための情報なのです。同意する人しかいないなら、根拠を述べる必要はありません。ですから、先の例でも、その主張に異論を唱える人を前提に述べるなら根拠が必要です。

 根拠なしに主張してしまう原因の一つが、パラグラフを使わずに文章を書いていることです。パラグラフを意識せずに、文章を文で書くと、1文だけでも次のトピックに移れます。主張だけでも文はつながるので、根拠を述べなくなります。1,2文で次々改行するような文章を書くと、根拠のない主張が登場します

 一方、パラグラフで文章書くと根拠述べずにはいられません。なぜなら、パラグラフはトピックセンテンス+サポートセンテンスで構成するからです。主張であるトピックセンテンスだけではパラグラフになりません。しかも、サポートセンテンスは4文程度は必要なので、必然的に根拠が厚くなります。文章を論理的にするためにもパラグラフは重要なのです。
図表番号の参照
 図表番号を参照するとき、文頭側に示しますか?文末側に示しますか?私は、文末側です。

 実は、ライティングの本で、このことに言及しているのを、私は見たことがありません。テクニカル・ライティングの世界では、重要ではないとして無視されているのかもしれません。あるいは、どこで述べるかは、習慣上の常識で説明する必要がないのかもしれません。

 私は、文末で示します。なぜなら、主張から根拠の流れが、テクニカル・ライティングでは常識だからです。つまり、まずポイントを述べ、それからデータです。図表はデータなので、主張の後です。図表で伝えたいことを先に述べ、それからデータである図表を示すべきと考えます。

 私は自分の意見を論証するために、このことを調べたことがあります。本には記載が見つからないので、実際はどう書かれているかを調べたのです。調査は、以下の2種類。
 1.学会論文(英語圏)はどちらで書かれているか
 2.テクニカル・ライティングの教科書ではどちらで書かれているか

 学会論文の実績を調べたところ、約10倍の頻度で文末派でした。科学雑誌のネイチャーの論文を数百件をテキストデータとして持っていました。そこで、このデータをプログラム処理して調査しました。その結果、圧倒的に文末派でした。

 テクニカル・ライティングの教科書を目視でチェックした結果、文末での表示しかありませんでした。調査したのは数冊ですから統計的な信頼はありません。しかし、ライティングの専門家が、文末にしか図表を持ち出さないなら、かなりの信頼性はあると思います。

 さて、あなたはどちら派
蔵書の電子化
 私は、1,000冊以上のビジネス書を、ほぼ全て電子化している。大変な作業だが、メリットは大きい。

 数年前、意を決して電子化を始めた。本をカッターで裁断し、スキャナで電子データ(PDF)にする。さらに、OCRで文字情報を追加した上で圧縮する。コツコツと数ヶ月かけて、蔵書を電子化した。

メリット1:
 検索できる。書籍内はもちろん、書籍間だって検索できる。あることを調べたいとき、キーワードで検索すれば、そのキーワードを本文中に持つ全ての本とページが特定できる。私は、このFacebookで人の本を引用することがあるのも、この検索機能のおかげだ。

メリット2:
 拡大して読める。私は、ビジネス書は原則、13インチのiPad proで読む。新書サイズもA4サイズになる。老眼鏡なしでも読める。

メリット3:
 持ち運べる。1,000冊以上が1枚の ICカードに収まる。全てをクラウドにもあげられる。いつでもどれでも読める。おかげで、読み直した本も多い。

メリット4:
 家のスペースが空く。1,000冊もあれば、本棚がいくらあっても足りない。私は、半間の本棚を1つ持っているだけだ。しかも、半分程度のスペースは、本以外を収納している。我が家は木造住宅だが、家の歪みや床抜けも心配せずにすむ。

メリット5:
 平面に表示できる。紙なら、あるページを開いた状態で置いておくのは難しい。開いたら手で押さえておく必要がある。電子化すればタブレットで表示できるので平面だ。教科書を開きながら、ノートを取ることもできる。

 さあ、あなたも蔵書を電子化しましょう!
反論は、従来の主張を上回っていることを論証しなければならない
 新たなことを主張することで生ずる対立を買って出る(反論する)人もいる。しかし、日本人は議論の勉強をしていないので、反論にならない。反論するには、従来の主張より自己の主張が上回っていることを論証しなければならない。

 反論する上で最初に確認すべきは、反論の対象である主張は立証できているのかだ。立証できていない主張に反論してはいけない。まずは、立証責任が果たされていることが、反論する第一条件だ。広く広まっている考え方などは、立証責任は果たされていると考えてよい。

 反論するなら、以下の2つのパターンになる。
1.従来意見にはメリットはない(あっても無視できるほど小さい)。一方で、深刻なデメリットが生じる。
2.従来意見にはメリットはあるが、デメリットの方が大きい

 この2つのパターンを、「出入国管理法改正」を例に説明しよう。与党側の主張は、「出入国管理法改正により、外国人労働者が増えるので、深刻な労働者不足を緩和できる」である。この主張は、立証責任が果たされているとしよう。

 この主張に対する反論は、以下のようになる。
1.出入国管理法改正により、外国人労働者が増えるが、深刻な労働者不足には焼け石に水である。一方、犯罪増加などのトラブルが増える。
2.出入国管理法改正により、深刻な労働者不足を緩和できるが、犯罪増加などのトラブルが増える方が、より深刻な問題である。

 このとき反論する側は、以下のことを論証しなければならない。
1.「出入国管理法改正による外国人労働者の増加は、深刻な労働者不足には焼け石に水であること」&「犯罪増加などのトラブルが増えること」
2.「深刻な労働者不足を緩和できことより、犯罪増加などのトラブルが増える方がより深刻であること」

 ところが、議論を知らないと、「メリットは認めるが、デメリットがある」と述べてしまう。つまり、「犯罪増加などのトラブルが増える」ことだけを論証してしまう。これでは反論にならない。反論するには、デメリットがメリットを上回ることは論証しなければならない。この論証は、反論側の責任だ。

 この、「メリットは認めるが、デメリットがある」と述べて反論した気になっている人は、知識人にもよく見られる。たとえば、新聞に記載されている大学教授の意見文などだ。「昨今、こういう傾向がある。確かにこんなメリットがあるのだろう。しかし、こういう問題が生じる」では、反論にはならないのだ。

 正当な反論であっても、説明の仕方が不十分だと、がっかりしてしまう。
対立を避ける人が多い
 新たなことを主張することで生ずる対立を避ける人は多い。しかし、それでは進歩はないし、自己否定にもなる。

 対立を避けるとは、「AではなくBだ」と述べるのではなく、「Bもある」とだけ述べるだ。しかも、「Aに加えて」とすら述べない。「Aに加えて」と述べてしまうと、二者択一になった場合、間接的に「AではなくBだ」と述べたのと同じになるからだ。Aについては全く触れないで説明するのだ。

 対立を避けることについて、宇佐美寛氏はその著「新版 論理的思考」で以下のように述べている。
「これらの論文のほとんどは、その筆者自身が他の研究者と違って何を明らかにし得たのかが、どう読みなおしても、書かれていないのである。これらの論文は、先行研究に対する批判や新たな結論の主張をするために書かれているのではないようである。」

 対立を避けるのは、その世界で生きていくための知恵かもしれない。従来を否定することは、自分の師や業界の重鎮に牙をむくのも同然だ。論理的に正しくても、権力によって自らが抹殺されてしまう可能性は高い。必然的に対立に対して腰が引ける。

 しかし、対立を避けていては進歩はない。「Bもある」では、Aに代わってBが採用されることはない。Bが採用されるには、Aより優れていなければならない。明らかに優れていると論証できないなら、現状のAのままだ。「AではなくBだ」と述べてはじめてBは採用される。

 また、対立を避けていては自己否定になる。Aより優れているからBを主張するのだ。そこをごまかすなら、何のためにBを立案したのだ。自分の考えを自己否定するに等しい。

 私は、対立を避けるのが嫌いだったので、サラリーマンを続けることをやめた。
新たなことを主張すれば対立を生む
 新たなことを主張すれば、必ず対立を招く。この対立を乗り越えてこそ進歩がある。しかし、この対立は、主張をする側にとっては大きな負担で、避けたくなる。

 従来と異なる主張をすることは、従来を否定することになる。たとえば、「能動態か受動態かは、何を中心(=主語)に書くかで自然と決まる」と主張すれば、従来の「受動態を避けるべき」という広く受け入れられてきた主張を否定することになる。

 従来を否定することについて、宇佐美寛氏はその著「新版 論理的思考」で以下のように述べている。
「印刷して他人に読ませる論文である以上、述べられている筆者の考えが、それ以前にあった他人の研究とは対立し、それらを批判し、それらにまさっている点を明らかにしていなければならない。」

 従来を否定するのだから、弟子は師を否定することになる。弟子は、師が時間をて得た知恵やスキルを、ずっと短い時間で教えてもらえるのだ。その分、弟子には時間がある。弟子には、師を乗り越えていくべき義務がある。だから、師の不十分な部分を見いだし、その部分を克服しなければならない。仮に、不十分なところを見いだしたことで師が怒り狂ったとしても。

 しかし、従来を否定すれば対立を招く。従来の立場に立っている人がいるからだ。先の「能動態か受動態かは、何を中心(=主語)に書くかで自然と決まる」と主張する例で言えば、「受動態を避けるべき」と信じていた人がいる。さらには、「受動態を避けるべき」と指導している人がいる。新たな主張が、自分の利益や立場を脅かすことになるなら、その対立は激化する。

 この対立は大きな負担だ。なぜなら、多くの場合、従来の立場に立っている人の方が、社会的な立場が上であり、しかも多数派だからだ。だから、従来の立場のものは、新しい主張を、社会的な圧力や数の力で葬り去ろうとする。これに対して、主張する立場は、論理でのみ勝負するしかない。多くの場合、論理より権力や数が勝つ。
図表はどこで参照する
 図表番号を参照するとき、文頭側に示しますか?文末側に示しますか?私は、文末側です。

 実は、ライティングの本で、このことに言及しているのを、私は見たことがありません。テクニカル・ライティングの世界では、重要ではないとして無視されているのかもしれません。あるいは、どこで述べるかは、習慣上の常識で説明する必要がないのかもしれません。

 私は、文末で示します。なぜなら、主張から根拠の流れが、テクニカル・ライティングでは常識だからです。つまり、まずポイントを述べ、それからデータです。図表はデータなので、主張の後です。図表で伝えたいことを先に述べ、それからデータである図表を示すべきと考えます。

 私は自分の意見を論証するために、このことを調べたことがあります。本には記載が見つからないので、実際はどう書かれているかを調べたのです。調査は、以下の2種類。
 1.学会論文(英語圏)はどちらで書かれているか
 2.テクニカル・ライティングの教科書ではどちらで書かれているか

 学会論文の実績を調べたところ、約10倍の頻度で文末派でした。科学雑誌のネイチャーの論文を数百件をテキストデータとして持っていました。そこで、このデータをプログラム処理して調査しました。その結果、圧倒的に文末派でした。

 テクニカル・ライティングの教科書を目視でチェックした結果、文末での表示しかありませんでした。調査したのは数冊ですから統計的な信頼はありません。しかし、ライティングの専門家が、文末にしか図表を持ち出さないなら、かなりの信頼性はあると思います。

 さて、あなたはどちら派
反証責任
 立証責任が果たされた意見には、相手側に反証責任が生じます。立証責任と反証責任の概念が理解できて始めて議論が成立します。

 反証責任とは、立証された意見には反論する義務が生じるという考え方です。この義務を果たさないなら、つまり反論しないなら、相手の意見を認めたことになります。つまり、沈黙は了承だということです。裁判でも、原告側が立証責任を果たせたなら、被告の黙秘は役に立ちません。

 この反証責任は、生じたらすぐに果たさなければなりません。沈黙によって暗に了承を示しておきながら、あとから反論してはいけません。後になって蒸し返しをすると、アンフェアのそしりを受けます。

 さらに、反証責任を果たされた意見(=反論)には、また反証責任が生じます。反論に対しても沈黙は了承です。すぐにまた反論する義務が生じるのです。

 この立証責任と反証責任の概念が双方にあって議論が成立します。立証責任を知らなければ、意見に根拠をつけようとしません。これでは議論になりません。反証責任を知らなければ、根拠を持って述べられた意見が無視されることになります。これでは議論になりません。

 しかし、残念ながらほとんどの人はこの概念を知りません。だから議論になりません。その場合、私は議論をやめて話題を変えます。
立証責任
 立証責任という概念を理解できていて、初めて議論ができる人になれると言える。

 立証責任とは、「言い出した側に、その言い正しいことを論証する責任がある」という考え方だ。逆に言えば、言われた側には、その主張が成立していないことを論証する義務はないと言うことだ。たとえば、「神は存在する」と主張するなら、存在することを論証するのは、「神は存在する」と主張した側だ。神が存在しないことを論証する必要はない。

 裁判でも、原告側が立証責任を追う。原告側が、被告が罪を犯したとか、被害を加えたことを論証しなければならない。被告側には無罪を立証する必要はない。だから、完全黙秘でも、原告が立証責任を果たせないと無罪となる。

 この立証責任は重い。何しろ被告しか知らないことが多数あるのだ。原告側が証拠を見つけ出すのは困難だ。たとえば、先の55歳の女性が敗訴した件、年齢によって差別を受けたことを論証するのは原告である女性側だ。しかし、女性側には、合否の基準も、面接の採点も知らされていない。この状況で差別を受けたことを立証するのは不可能だ。

 立証責任は重いので、一部の裁判はたいがい原告が負ける。たとえば医療過誤だ。医療行為にミスがあったことを、素人側が、医療データもなしに論証しなければならない。まず不可能だ。だから、医療過誤の裁判は、ほとんどが無罪判決になる。
立証責任
 立証責任は重いので、負う必要のない立証責任を負ってはいけません。逆に、立証責任を相手に押しつけると、議論を有利に進められます。

 立証責任は言い出した側が負うべきなので、言い出してもいないのに立証しようとしてはいけません。たとえば、「神は存在する」という意見を聞いて、「神は存在しない。なぜなら、」なんて言い出してはいけません。まずは、「神は存在する」と言い出した側の根拠を聞くべきです。

 しかし、議論が得意と勘違いしている人ほど、負う必要のない立証責任を負います。意見を述べたくてウズウズしているからです。相手が意見を言う時間を与えないくらいに、自らが意見を述べることが議論上手と思っているのです。

 本当に議論が上手な人は、自分が負うべき立証責任まで、相手に負わせてしまいます。自分が立証すべきことを相手に立証させ、相手がしどろもどろになって立証しているところで、突っ込みを入れるのです。本当に議論が上手な人はしゃべりません。

 立証責任を相手に負わせるコツは、「なぜですか?」と問うのです。「なぜですか?」と聞かれれば、たいがいの人はなぜかを答えます。なぜかを答えるのは、自分なのか、相手なのかは考えません。なぜかを答えてくれれば、立証責任は相手が負ったことになります。あとは、相手がしどろもどろになって立証しているところで、突っ込みを入れればいいのです。

例:
A氏:「当社はソフトウェア開発拠点を中国に移すべきです。なぜなら、…(根拠)。」
B氏:「なぜ、インドではなく中国なの?ソフトウェア開発ならインドが適切ではありません?」
A氏:「なぜなら、…」(負う必要のない立証責任を負っている)
立証責任
 立証責任があまりに重いので、その緩和を図ったのが製造物責任法(PL法)です。ある製造物で被害を受けても、ユーザーがその製造物の欠陥を立証することは不可能になってきました。なぜなら、製造物の電子化が進んだ結果、素人のユーザーは欠陥を見つけられないからです。そこで、PL法では、原告の立証責任を「想定しうる範囲の使用法で使用した結果被害を受けた」まで緩和したのです。製造物の欠陥の立証は免除したのです。

 気をつけたいのは、PL法では、「想定しうる範囲で使った」立証を求めていることです。つまり、正しい使い方でなくても、想定しうる誤用でもかまわないということです。たとえば、エスカレータのメーカーが、「エスカレータでは歩かないでください。歩くようには作られていません」なんて言っていますが、そんな言い分は裁判では通用しません。エスカレータの片側を歩くのは、「想定しうる範囲で使った」ことになるでしょうから。

 アメリカでは、PL法の訴訟で負けると莫大な補償金を取られます。補償金が莫大になるのは、懲罰的な罰金を含むからです。賠償金額が数億円ということはよくあります。しかも、敗訴の原因が注意表示が不十分だったからなんてのもあります。

 以下は、アメリカで起こった、賠償金目当ての裁判の例です。
・ぬれた飼い猫を電子レンジで乾かそうとしたところ、猫がレンジ内部で爆発して扉が吹っ飛び、飼い主がその扉でけがをしたのは、メーカーの注意表示が足りないからだ
・ドライブスルーでホットコーヒーを受け取ろうとしたところ、あまりに熱くて持ちきれずこぼしてやけどしたのは、店員が注意喚起しなかったからだ
・ハンバーガーの食べ過ぎで太ったのは、ハンバーガーチェーン店が注意喚起しなかったからだ
AI翻訳
 VoiceTraやGoogle翻訳のようなAIベースの翻訳でも、まだ不十分であることを指摘した。では、AIの進化とともに、近い将来十分な翻訳が出来るようになるのかというと、私は懐疑的だ。その理由は、フィードバックがないから。

 AIベースの翻訳では、意味を込めるような表現を翻訳するのが苦手だ。たとえば、以下のような文である。
「この装置は、赤外線センサーが内蔵されていて、障害物を認識できます。」
VoiceTraの英語
"This device is equipped with an infrared sensor and can recognize the obstacles."
Google翻訳の英語
"This unit has an infrared sensor built in, and it can recognize obstacles."

 この翻訳の問題は、「て、」を"and"と訳していることだ。この2つの文は、"and"(等位接続)では接続できない。なぜなら、前半の文は手段で、後半の文は行為だからだ。"and"で接続できるのは、手段と手段か、行為と行為だ。

 日本語の「て、」には、等位ではない別の意味が込められている。その意味を、2つの文の関係から、読み手側が読み取っているのだ。日本語では、このような意味を込めた接続がよく使われる。

 意味を込めない明確な日本語を入力すれば、AI翻訳は正しく翻訳(下記参照)してくる。
「この装置は、内蔵の赤外線センサーを使って、障害物を認識できます。」
VoiceTraの英語
“The device can recognize the obstacles by using an integrated infrared sensor.”
Google翻訳の英語
"This unit can recognize obstacles by using built-in infrared sensor."

 しかし、現実にはAI翻訳が、込めた意味を推測する必要がある。なぜなら、日本の教育では、「この装置は、赤外線センサーが内蔵されていて、障害物を認識できます。」は、不十分な文であるとは習わないからだ。ほとんどの人は、こういう文を、正しいと思って、ごく普通に書いてくる。AI翻訳のために日本語の再教育をするなら本末転倒だ。

 AI翻訳が、込めた意味を推測できるようになるには、誰かがフィードバックしてあげないとならない。つまり、「この翻訳ではだめで、こう意味をくみ取らないとならない」と、AIに教えてあげなければならない。AIが、「この英文で正しく翻訳できた」と思っている限り上達はない。

 しかし、このフィードバックは期待できない。なぜなら、AI開発者が現状の問題点(AIが文と文の接続を推測できない)ことに気がついていないからだ。AI開発者が「正しく翻訳できた」と思っている限り、いつまでたってもAIが文と文の接続を推測できるようにはならない。

 AIは自己学習すると思っている人もいるかもしれないが、こういうケースで自己学習は期待できない。自己学習というのは、囲碁や将棋の対戦で負けるというようなフィードバックをベースとしている。あるいは、膨大な情報から標準的傾向を読み取って学習する。しかし、翻訳の世界に勝ち負けはないし、意味を込めた表現が一般的だ。これではAIによる自己学習は期待できない。

 不十分だというフィードバックがかからない以上、AIが正しく翻訳できるようになるには時間がかかるだろうというのが私の予測である。
AI翻訳
 VoiceTraという同時翻訳アプリがある。VoiceTraとGoogle翻訳で同じ日本語を翻訳させてその精度を検証していみた。

 VoiceTraの精度は、TOEIC900点レベルだそうな。ポケトークという同時翻訳機(明石家さんまが宣伝している)のエンジンにもなっている。この翻訳アプリは、政府も導入に動いているという記事が朝日新聞に載っていた(情報提供は京都橘大学池田教授)。

 Google翻訳の精度は、このFBでも以前説明した。悪くはないが、不十分なことは多い。特に、主語の選択、時制、文の接続が不適切だ。

 具体的に見ていこう。

1.「この装置は、赤外線センサー が内蔵されていて、障害物を認識できます。」

VoiceTraの英語
"This device is equipped with an infrared sensor and can recognize the obstacles."

Google翻訳の英語
"This unit has an infrared sensor built in, and it can recognize obstacles."

コメント:
 VoiceTraではequipという動詞を使っていることが評価できる。Google翻訳ではhaveという口語調の稚拙な表現を使っている。しかし、どちらも文の接続がだめだ。日本語の「て、」はandではない。

2.「当社は懐具合が窮屈なため、10%の割り増し料を請求せざるを得ません。」

VoiceTraの英語
"We have to charge ten percent extra charge because our company is too tight."

Google翻訳
"We are forced to charge a surcharge of 10% because our business is cramped."

コメント:
 VoiceTraでは「せざるを得ません」を”have to”と適切に訳している。しかし、いずれも、chargeが重ね言葉になっているし、「懐具合が窮屈」を訳せていない。主語の選択も出来ていない。

総合評価:
 翻訳の質はVoiceTraが上だが、VoiceTraには文の長さに制限があるので、一長一短か。いずれにしろ、まだまだ不十分だ。TOEIC900点レベルとは言えまい。
スキルを向上させるには
 スキルの向上には、フィードバックが必要だ。しかし、フィードバックがなくても、ロジカルスキルは、思考次第で向上は可能だと思う。

 原則、スキルアップには、フィードバックが必要だ。自分の行動が、正しいか正しくないかのフィードバックがなければ、スキルの向上は難しい。たとえば、テニスで言えば、自分の打ったボールが相手コートに入るか、球速が速いか、返球しにくい場所にボールが入るかなどはすべてフィードバックだ。このフィードバックがあるからスキルは向上する。

 しかし、「先生」と呼ばれる立場の人(自分のその一人だが)には、フィードバックはかかりにくい。たとえば、大学の教授に向かって、「あなたの文章はわかりにくい」、「あなたのプレゼンは不十分だ」などと指摘する人はいない。これが会社なら、上司が指摘してくれることがあるだろう。しかし、「先生」と呼ばれる立場になると、まずフィードバックはかからない。

 だから、「先生」と呼ばれる立場の人で、基本スキルが不十分な人を見かける。もちろん、「先生」と呼ばれるぐらいだから、知識は豊富だ。しかし、文章やプレゼンのような基本スキルが怪しい人は多い。怪しいスキルなのに、だれも「分かりにくい」とは指摘してくれないので、十分なスキルを持っていると勘違いしている。たとえば、テクニカル・ライティングの知識が豊富で指導しているにもかかわらず、論理的でわかりやすい文章を書けない人を私は知っている。

 フィードバックがなくても、論理的なスキルについては、姿勢や考え方次第でスキルアップは可能だと思っている。姿勢とは、原理原則(知識)を守り通そうとすることだ。考え方とは、原理原則を守れないとき、なぜ守れないのか、守らなくていいのかを理屈で説明しようとすることだ。この姿勢や考え方を維持できれば、フィードバックがなくても、かなりスキルは向上する。

 たとえば、「起承転結で書く」で考えてみよう。「起承転結で書く」という原理原則を正しいと思うなら、自分の書く文章は、すべて起承転結を守らなければならない。もし守れないなら、なぜ守れないのか、守らなくていいのかを、根拠を持って説明しなければならない。この姿勢や考え方を維持できるかだ。

 論理が通るかを考えれば、論理的なスキルについては、フィードバックがなくてもスキルアップは可能だ。問題なのは、考えもせずに先人が述べたことを鵜呑みにする姿勢だ。
受動態か能動態かではなく、何を中心に述べるかだ
 以前にも書きましたが、受動態か能動態かは、何を中心に述べるかで決まるのです。「受動態は避ける」は古い理論です。

 たとえば、次の2つの文を比べてみましょう。
1.山田一郎氏は、1980年にABC社を設立しました。
2.ABC社は、1980年に山田一郎氏によって設立されました。

 この2つの文では、中心が異なります。1は、山田一郎氏について説明しているのです。2は、ABC社について説明しているのです。受動態か能動態かではありません。何について説明したかによって態は変わるのです。

 確かに、「受動態は避ける」と昔は言われていました。30年ほど前はこの考えが主流でした。しかし、今では、態は文の中心によって変わるが、テクニカル・ライティングの主流です。

 今だに「受動態は避ける」と主張してしまうのは、思考せずに鵜呑みにしているのです。「昔読んだ本に書いてあったから」という理由だけで、考えることなく鵜呑みにしているのです。なぜ、「受動態は避ける」べきかを、自分では考えていないのです。

 思考していない例を以下に示します。出典は『入門テクニカルライティング』(IT委員会 著)です。

---引用---
●受動文より能動文を
一般に受動文より、能動文の方が説得力があります。それゆえ、なるべく能動文を使用すべきです。
たとえば、
[PrintScrn]キーが押されると、画面表示がプリンタに出力される。
という文章は、次のように書換た方がよいでしょう。[PrintScrn]キーを押すと、画面表示がプリンタに出力される。
---引用---

 「受動文より、能動文の方が説得力があります」って根拠は?なぜ、受動文より能動文の方が説得力があるのでしょう。私は、受動文より能動文の方が説得力があるなんて感じたことはありません。根拠が根拠になっていないのは、思考できない人の特徴です。

 この書き換えの例文は、なぜ、文の後半も能動態にしないのでしょう。文の前半は能動態ですが、文の後半は受動態です。自分が示した例文が、自分の主張と矛盾していることに気づいていません。

 書き換えの例文のほうが説得力があるのでしょうか?2つの文をどう感じるかは別として、説得力があるとは感じられません。このことは、根拠を述べるまでもなく、多くの方が同様の感想を持つでしょう。ならば、「受動文より、能動文の方が説得力があります」という根拠が。根拠になっていないことを自己証明してしまっています。

 この2つの文は、文の中心に何を置くかで、両方ともアリです。「[PrintScrn]キーが押されると、画面表示がプリンタに出力される」は、ソフトウェア開発者が中心に置かれているのです。一方、「[PrintScrn]キーを押すと、画面表示がプリンタに出力される。」は、ソフトウェアユーザーが中心に置かれているのです。どちらが良いか悪いかではなく、誰に向かって書いているかです。
代名詞は使わない
 テクニカル・ライティングの考え方の一つに、「代名詞は避ける」というのがあります。しかし、論理的な文章を書くことを生業にしている人でも、このルールを守れないことは多いのです。

 論理的な文章では代名詞は避けます。代名詞というのは、「これ」「それ」「あれ」です。これらの言葉は、何を差しているかが曖昧になるからです。曖昧でなくても、読み手に考えさせる時間を強いること自体が伝達性を下げてしまいます。

 そこで、代名詞の代わりに「この〇〇」という言い方をします。つまり、「この方針」とか、「この態度」のように使います。この言い方を「代示」と学びましたが、「代示」は広辞苑には載っていません。テクニカル・ライティングの世界における専門用語なのでしょうか。代示を使えば、指しているものが何かは明確です。

 ところが、論理的な文章を書くことを生業にしている人でも、このルールを守らないケースが多いです。文章書き方を論じた本でも、代名詞が使われているケースはよく見ます。あるいは、テクニカルライターの書いた解説書でも、代名詞を見ることがあります。

 ちなみに私は、代名詞は使いません。大量の文章を書くときでも、一切使いません。たとえば、一冊の本を書くにしても、一回も使いません。徹底しているので、代名詞を使う発想が自分にはないのです。
道順を説明する
 突然ですが、「下記の地図を参考に、『You are here.』から『Goal』までの道順を説明してください」と言われたら、どんな説明をするでしょうか?

 多くの人は、「この道を北にまっすぐ行って、突き当たりを左に」のように始めるのではないでしょうか?

 分かりやすい説明は、「Goalまでは、北西に歩いて十分ぐらいです。角を全部で三回曲がります。まず、この道を北にまっすぐ行って、」のように始めます。

 先に全体像を示すと分かりやすくなります。最初に、Goalへの方向と距離感を掴めます。1つめの角の説明の時には、全体の2-3割、3つめの角なら7-8割と当たりがつきます。絶えず全体像を頭に置きながら、今の説明が全体のどのあたりに相当するかを意識できます。また、この説明がどう続くかを予測しながら聞けるのです。

 一方、いきなりの詳細説明はわかりにくいです。3つめの角の説明でも、それが全行程の1割なのか9割なのかわかりません。この説明が、このあとどのくらい続くかも予想できません。全体が見えないまま、先が見えないまま、細かい話を聴き続けるのはつらいのです。

 しかし、人は、つい詳細から道順を説明します。なぜなら、説明する側の頭には、全体像があるからです。今、自分が全体のどこを説明し、あと何をどのくらい説明しないといけないかは、説明する側は知っているのです。だから、詳細から道順を説明しても、説明する側は何も困りません。

 発信者と受信者は持っている情報が違うのです。しかし、発信者側はそのことを気づかずに説明してしまうのです。最初に全体像やポイントを示すことは大事です。

 なお、この文章では意図的に、最初に全体像やポイントを示していません。その理由は、もちろん、最初の質問の効果的になるようにです。
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電子メールでも先頭には総論を書く
 私は、「文章の先頭でポイントを述べましょう」と指導しています。この考え方は、レポートはもちろん、電子メールでも同じことです。

 たとえば、週報のような電子メールでも、先頭にポイントを簡潔に述べるのです。週報のポイントというと、その週やった仕事の成果や、今抱えている問題点などです。このポイントを15秒ぐらいで読めるようにまとめます。

 週報の先頭にポイントがまとめてあれば、リーダーはそのポイントぐらいは読もうという気持ちが生じます。なにしろ、15秒ぐらいで読めるのですから、部下が10人いても、全部で3分かかりません。時間が許せば、あるいは問題を感じたら、詳細側まで読み進めばいいのです。

 この説明を聞いて、ある会社の研修担当が実行してみたら、上司が週報に返事をくれるようになったそうです。その返事は、簡単な指示や注意の場合もあれば、「困ったら聞きに来てください」というようなものもあるようです。たいしたコメントではないようですが、返事が来るようになったのです。

 おそらく、それまで上司は、週報を読んでいなかったのでしょう。それは無理もありません。詳細な進捗がダラダラ書いてある週報を、それも部下の人数だけ、丁寧に読むほど上司は暇ではありません。詳細ばかりが書いてあるメールは、多くの場合、読まれないのです。

 先頭にポイントを簡潔にまとめることで、読まれていなかったメールが読まれるようになったのです。
英会話の学習法
 友人のFaceBookに、20年以上前の話として、黒人は知的な英語を話せても日本では英会話の講師としての職が得られないという、差別の話が載っていた。それで思い出したことがある。25年ほど前、私が英会話を勉強していた頃、最も勉強になった英会話レッスンの講師が黒人だった。

 彼のレッスンには厳しい宿題が課せられていた。提供された英会話のテープ(当時はカセットテープ)を聴いて、その内容を文字に起こしてくるのだ。レッスンは週一回だが、18時からの2時間のレッスンに、1時間以上の予習が必要だ。しかも、レッスンの冒頭で、受講者どうしが聴き取ってきた英語を、英語だけを使って確認しあう。だから、宿題をやってこないと、冒頭の30分はレッスンに参加できない。

 厳しい宿題の結果、受講者みるみる減少した。20人近くいた受講者は、最後は私を入れて3人前後まで減った。そりゃあそうだ。当時は長時間労働が当たり前の世界。レッスンに参加するのだって大変だ。私だって、宿題を昼休みにやり、20時までレッスンを受けた後、22時まで仕事をしていた。

 しかし、残った受講者は全員、英会話力が向上したと感じた。スキル習得には、それなりの努力がいる。楽してスキルは身につかない。寝る間を惜しんで努力した人間だけがスキルを向上できるのだ。

 その後、彼がどうなったかは知るすべがない。20人近くいた受講者が3人前後まで減ったのだ。講師としての評価は低いだろう。職を失ったかもしれない。

 彼のプロとしてのプライドは、今でも心に残っている。
「が、」「り、」「し、」「て、」で文と文をつながない
「が、」「り、」「し、」「て、」で文と文をつないではいけません。

 文と文をつなぐ「が、」を使わないのは、順接と逆接の両方の意味が可能だからです(下記の例参照)。しかも、順接か逆接かは、「が、」以降を読まないと特定できません。それだけわかりにくく、読み手に負担のかかる表現なのです。
 順接:先日、A氏の還暦祝いの会が催されたが、B氏がそこで重大発表をした。(順接)
 逆接:先日、A氏の還暦祝いの会が催されたが、B氏は参加しなかった。(逆説)

 特に、順接の「が、」は使う意味がありません。使わないようにしましょう。私は、「生涯使うまい」と心に誓っているぐらいです。順接の「が、」を使った文は、使わない文に直せるのです(下記参照)
 例:先日、A氏の還暦祝いの会が催された。その会で、B氏は重大発表をした。
 例:先日催されたA氏の還暦祝いの会で、B氏は重大発表をした。

 同様に、「『り、』『し、』『て、』も使うな」と私は指導しています。これらの接続は、ほとんど場合、意味のない接続か、意味を込めた接続だからです。
 例:偽造写真広告は技術の責任でなく、ルール違反行為であって、技術と行為は明確に区別されなければならない。(切ればよいだけの意味のない接続)
 例:偽造写真広告は技術の責任でなく、ルール違反行為であって、技術ではなく行為の規制が必要となる。(原因結果という意味を込めた接続)

 この「『が、』『り、』『し、』『て、』で文と文をつながない」は、「一文一義」や「文を短く」と同意です。「が、」「り、」「し、」「て、」で文と文をつなぐから、一文多義になるのです。あるいは、文が長くなるのです。「一文一義」や「文を短く」のできていないサインが、「が、」「り、」「し、」「て、」なのです。私は、「一文一義」という抽象的なお題目も使います。しかし、より具体的に「『が、』『り、』『し、』『て、』で文と文をつながない」と強調します。

 ちなみに、上記の文章で「が、」「り、」「し、」「て、」で文と文をつないでいるところはありません(例文を除く)。
神は細部に宿る
 「神は細部に宿る」"God is in the Details" 例で紹介しよう。

 以下は、大学生の学力低下に関する原因分析である(内容はフィクション)
1.高校生の自宅での学習時間が年々減りつつある。
2.大学入試の科目が減って、高校での学習範囲が狭い。
3.大学の単位が簡単に取れるので、入学後に勉強しない。

 この3つの「不揃い」を探してもらうと以下のような指摘が上がる。これらの指摘は、もちろん正しい。
・1,2は高校だが、3は大学(時間の不揃い)
・1,3は勉強量だが、2は勉強範囲(責任主体が学生か、学校か)
・1,2は数値データを示せるが、3は「単位が簡単に取れる」を数値では示せない(定量的か、定性的か)

 私が注目するのは、読点の有無だ。1には読点がないが、2,3には読点がある。このことは、1は2,3に比べて文の構成が違うことを示している。文の構成が違うなら、並列として不十分だ。

 読点の有無をヒントに紐解くと、2,3は原因を2段で分析しているのがわかる。これに比べると、1は分析が浅い。2,3と並列するには、1も「自宅での学習時間が年々減りつつある」原因まで分析しなければならない。そこまでそろえて、初めて正しい並列と言える。

 この違いは、論理性だけではなく、パラグラフの内容に大きな影響を及ぼす。なぜなら、実際の文章は、この3つの文がパラグラフのトピックセンテンスとなるからだ。トピックセンテンスが不十分だと、その後に続くサポートセンテンスに影響が出る。

 この3つの理由が、それぞれパラグラフなら、パラグラフの中に以下のような情報を書くことになるだろう。
1.自宅での学習時間が年々減りつつあることを示すデータ
2.大学入試の科目が減ったことを示すデータと、高校での学習範囲が狭くなったデータ。
3.単位が簡単に取れることを示すデータ(単位が簡単に取れることを証明できれば、大学生が勉強しないのは自明だ)

 その結果、1と3は、学生が勉強しないという同じ指摘なのに、パラグラフの内容が大きく異なってしまう。読点一つないがしろにはできない。

 「神は細部に宿る」
代案の3条件
 代案は、下記の3つの条件を満たしていなければなりません。しかし、このことを意識できない人は多いです。
 1.原案と異なる
 2.原案より優れている
 3.原案とは同時に実行できない

1.原案と異なる
 説明するまでもなく当たり前です。原案と同じでは代案にはなりません。原案のわずかな改良では代案とは呼びません。

2.原案より優れている
 説明するまでもなく当たり前です。原案より劣っている代案を採用する意味はありません。

3.原案とは同時に実行できない
 原案と代案が同時にできるなら、「両方実行しましょう」となって、原案を否定できません。

 実は、「3.原案とは同時に実行できない」を意識できない人は多いです。

 たとえば、大阪市が、学力テストの結果を教師のボーナスに反映させる方針を出したときのことです。この方針に反対するあるグループが、「学力は貧困との相関・因果関係が強い。大阪は相対的貧困率のが全国でもワーストに近い。相対的貧困率の改善をすべきだ」と主張していました。「それでは、相対的貧困率の改善も図りましょう。学力テストの結果を教師のボーナスに反映させることもしましょう」と言われておしまいです。

 ちなみに、代案が「原案とは同時に実行できない」ことを立証するのは、代案を出した側です。言い出した側が立証責任を負うのです。ただし、同時に実行できないことが、言うまでもなく当たり前なら、立証する必要はありません。

 なぜ、「3.原案とは同時に実行できない」を意識できないかと考えると、言い出した側は代案を出した意識がないからかもしれません。先の例で言えば、大阪市の方針に反対するグループは、反論したのであって、代案を出したつもりではいないのかもしれません。

 もうすこし、議論を勉強してほしいものです。

 注)私は、学力テストの結果を教師のボーナスに反映させる方針に賛成しているのではありません。
文章とスピーチの違い(Part3)
 スピーチであるプレゼンテーションと文章では、説明をどう変えるべきか?のPart2。前回示した、スピーチとプレゼンテーションの違いのうち、「1.文章は記録に残るが、スピーチはその場で消える」と「4.文章はある程度の広範囲を見渡せるが、スピーチは話している部分しか意識できない」も、説明の仕方に、以下のような大きな差をもたらします。
1.全体での位置づけの把握容易さが違う
2.前後の接続関係の把握容易さが違う

1.全体での位置づけの把握容易さが違う
 全体像を述べてから詳細説明に移るとき、文章は全体像を頭に置きやすいのですが、プレゼンテーションは全体像を忘れやすいです。たとえば、「A,B,Cがある」と述べてからAを説明するときです。文章は全体像が詳細説明の前に書いてありますから、広範囲を見渡たすことで、全体像が確認できます。しかし、プレゼンテーションでは全体像が前のスライドに示されているので、詳細説明を聞いているときには、全体像がスライドに映っていません。今なされている詳細説明が、全体像のどこかが分かりにくくなります。

 そこで、プレゼンテーションでは、詳細説明をするときでも、全体像が目に映る工夫が必要です。A,B,CのAを説明するとき、A,B,Cという全体像を、小さく表示しておくのです。たとえば、Aのスライドの邪魔にならない部分(スライド右上)などです。

2.前後の接続関係の把握容易さが違う
 前後のトピックに接続関係があるとき、文章は前後の接続関係を確認しやすいのですが、プレゼンテーションは難しいです。接続関係があるとは、たとえば、原因と対策を述べたとき、対策が原因を正しく対応しているかということです。文章なら、前のトピックが直前に書いてありますから、広範囲を見渡たすことで、前後が確認できます。しかし、プレゼンテーションでは前のトピックが前のスライドに示されているので、次のトピックを聞いているときには、前のトピックがスライドに映っていません。今なされているトピックが、前のトピックを正しくヒットしているかが分かりにくくなります。

 そこで、プレゼンテーションでは、前後のトピックに接続関係があるとき、、対応関係が目に映る工夫が必要です。たとえば、前のトピックや図解を、次のスライドの邪魔にならない部分に小さく表示しておくのです。あるいは、前のスライドのキーワードを、次のスライドにそのまま持ち込むとか。

1.2は、なぜできない
 こういうことを意識できているプレゼンテーションを見ることはありません。なぜなら、プレゼンターは、全体像を絶えず頭に置けるし、前のトピックを意識しつつ次のトピックを説明できるからです。なにしろ、自分の作ったプレゼンテーションですから。しかし、初めて聴く聴衆からすれば、とても意識しきれません。
文章とスピーチの違い(Part2)
スピーチであるプレゼンテーションと文章では、説明をどう変えるべきか?前回示した、スピーチとプレゼンテーションの違いのうち、「3. 文章は読み方を受信者が決めるが、スピーチは受信者がコントロールできない」が、説明の仕方に、以下のような大きな差をもたらします。
1.並べる順が違う
2.最初と最後の重みが違う
3.説得のアプローチが違う

1.並べる順が違う
文章は重要な順が基本ですが、プレゼンテーションでは重要な情報を最後に出すときもあります。文章は、読み方を受信者が決めるので、最後まで読んでもらえる保証はありません。途中で読むのを止めてしまうかもしれません。しかし、確実に言えるのは、上から読んでいくということです。だから重要な順です。一方、プレゼンテーションは、最後まで聞くのが前提になりやすいです。なので、最後に重要な情報を出す戦略も使えます。

2.最初と最後の重みが違う
同じ理由から、文章は最初に大事な情報をまとめることが重要ですが、プレゼンテーションは最後のまとめも重要になります。文章では、最初に大事な情報をまとめるのです。最後まで読んでもらえると思ってはいけません。一方、プレゼンテーションは最後まで聞くのが前提ですから、まとめの重要性が増します。しかし、プレゼンテーションでも、いわゆる「つかみ」は重要です。

3.説得のアプローチが違う
説得するために、ステップバイステップに説明して、結論を最後にだけ述べたいならプレゼンテーションを使うべきです。文章で、ステップバイステップの説得はできません。なぜなら、文章の場合、結論が先にないと、ページをめくって結論を先に見るからです。文章では読み方を、受信者が決めるのです。どんな結論になるかわからない文章を、1ページ目から順を追って読む人はいません。一方、プレゼンテーションは最初から最後までを通しで聞くのが前提になりやすいので、ステップバイステップの説得に向いています。
文章とスピーチの違い(Part1)
文章とスピーチ(プレゼンテーション)は、何が違うでしょうか?この違いを意識すると、効果的な説明方法がわかります。私が感じる違いは、以下の5点です。他にもありませんか?
 1.文章は記録に残るが、スピーチはその場で消える
 2.文章は目から入ってくるが、スピーチは主に耳から入ってくる
 3.文章は読み方を受信者が決めるが、スピーチは受信者がコントロールできない
 4.文章はある程度の広範囲を見渡せるが、スピーチは話している部分しか意識できない
 5.文章はすべてを決めてから書くが、スピーチはある程度即興で話せる

1.文章は記録に残るが、スピーチはその場で消える
 なので、記録に残すときは、原則として文章を使います。記録に残るので、後で読み直すこともできます。スピーチも録音という手がありますが、その頻度を考えれば例外と言えるでしょう。

2.文章は目から入ってくるが、スピーチは主に耳から入ってくる
 なので、強調の仕方が変わります。文章は強調したいときには目に訴えます。つまり、強調したい箇所のフォントを大きくしたり、下線を引いたり、色を変えたりします。一方、スピーチは耳に訴えます。強調したい箇所では声を大きくしたり、間を開けたりします。

3.文章は読み方を受信者が決めるが、スピーチは受信者がコントロールできない
 なので、文章では読む速度から読む箇所まで読み手が決めます。文章なら、概略だけ読んで終わりにすることも、全部を通しで読むことも、大事な部分だけを選んで読むことも、分かりにくい部分を戻って読み直すのも、読み手の自由です。一方、スピーチは受信者である聞き手はコントロールできません。最初から最後までを通しで一回聞くのが前提になりやすいです。

4.文章はある程度の広範囲を見渡せるが、スピーチは話している部分しか意識できない
 なので、文章では全体を意識しながら細部を読めます。最近の文章は両面コピーか、ディスプレイに2枚表示が多いです。ですから、ある程度の範囲で前後を見渡せます。一方、スピーチでは、今話しているその部分、そのスライドしか意識できません。

5.文章はすべてを決めてから書くが、スピーチはある程度即興で話せる
 なので、文章では後から修正できません。一方、スピーチは聴衆を見ながら対応できます。聴衆が理解できていないと思えば、具体例を追加したりすることも自由です。

 では、文章とスピーチでどう説明の仕方を変えるか?それは次回。
自分の文章のチェック方法
 自分の文章が論理的で分かりやすいかどうかは、以下の方法でチェックできます。
 1.後に登場する見出しをすべて使って、簡単な総括文章が作れるか
 2.各パラグラフは、4-8文で構成されているか
 3.各パラグラフの先頭文でロジックは通るか
 4.各パラグラフの先頭文は、既知から未知に流れるか

1.
 正しく書かれた文章では、後に登場する見出しをすべて使って、簡単な総括文章が作れるはずです。見出しは、その文章のキーワード、つまり重要な論理構成単位です。論理構成単位を集めれば、文章の総括が出来るはずです。見出しを集めて短い総括的な文章が作れないなら、論理構成が不十分な証拠です。

2.
 正しく書かれた文章では、各パラグラフは、4-8文で構成されているはずです。説得力のある文章では、すべてのトピックを、データや具体例などで説明、論証しなければなりません。しっかりと説明、論証しようとすれば、4-8文程度は必要です。1つのパラグラフが1,2文だけで終わってしまうなら、説得できない、分かりにくい文章である証拠です。

3.
 正しく書かれた文章では、各パラグラフの先頭文でロジックは通るはずです。1つのパラグラフは、1つのトピック、1つの論理構成単位で構成されています。そのトピックを適切に1文目で表明できれば、1文目だけ読んで、すべての論理構成単位が拾えるはずです。すべての論理構成単位が拾えれば、それだけで文章として成立する、ロジックが通るはずです。各パラグラフの先頭文でロジックは通らないなら、1パラグラフは1トピックの原則が守られていないか、先頭文でトピックを述べていない文章である証拠です。

4.
 正しく書かれた文章では、各パラグラフの先頭文は、既知から未知に流れるはずです。その文章が横に並ぶロジックなら、最初にA,B,Cとポイントを述べてからA,B,Cを詳しく説明します。たとえば、この文章がまさにその形です。一方、その文章が縦につながっているなら、A-B、B-C、C-Dのように流れます。たとえば、以下のようにパラグラフの先頭文が流れます。
 ・プラントXで不純物混入という問題が生じている
 ・不純物が混入した原因は、バルブAに問題がある
 ・そこで、バルブAに〇〇という対策を取った
 ・この対策の結果、不純物混入率は基準値以下に収まるようになった
各パラグラフの先頭文が、既知から未知に流れないなら、説明が不十分、ロジックが飛んでいる文章である証拠です。

 ちなみに、上記4条件を満たす文章を見ることは、まずありません。


プロフィール

ロジカルスキル研究所代表

Author:ロジカルスキル研究所代表
ロジカルスキルを企業研修で指導しています。主な講座は、ロジカルライティング、ロジカルネゴシエーション、ディベート、ロジカルプレゼンテーション、英文テクニカルライティングです。

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